
親御さんが亡くなり、静けさが戻った頃に、ふと届く一枚の請求書。
相続の場面では、このように“思いもよらない負の遺産”が後から姿をあらわすことがあります。
そして、その不安を解消する方法としてまず浮かぶのが「相続放棄」という手続きです。
ただ、相続放棄は“申し込めばすべて終わり”という単純な制度ではありません。
ちょっとした対応ひとつで放棄ができなくなってしまったり、原則として「相続の開始を知ったときから3か月」という期限に追われて焦ってしまったり、放棄後も一定の責任が残るケースがあったりと、いざ調べはじめると「思っていたより複雑なんだ」と感じる方がほとんどです。
とくに、令和5年4月1日施行の民法改正で見直された民法940条は、「相続放棄したのに、まだ何か管理しないといけないの?」と驚かれることの多いポイントです。
この記事では、相続放棄について、まず押さえておきたい“本当に大事な部分”を、できるだけやさしく、順を追って解説していきます。
- 相続放棄とはどんな制度なのか
- 相続放棄が認められない典型的なケース
- 3か月ルール(熟慮期間)の本当の意味と、例外が認められた事例
- 相続放棄をしても残る「保存義務」――940条改正で何が変わったか
- もし相続放棄ができなかったときの現実的な選択肢
相続の問題は、ときに生活そのものに関わるほど重くのしかかることがあります。
だからこそ、まずは状況を整理し、何をすべきか、何を急がなくていいのかを知ることがとても大切です。
むずかしい条例や裁判例も、できるだけ“日常の言葉”で説明していきますので、どうか肩の力を抜いて読み進めてみてください。
◆1|相続放棄の基本
相続放棄とは、とてもシンプルに言えば、「この相続については、最初から相続人ではなかったものとして扱ってください」と家庭裁判所に申し出る制度です(民法939条)。
相続と聞くと、不動産や預貯金など“プラスの財産”を受け取るイメージが強いですが、実際には、借金や滞納していた税金といった“マイナスの財産”も原則としてそのまま受け継ぐ仕組みになっています。
相続放棄は、こうした負債を引き継ぎたくない場合に利用できる方法で、一言でいえば「負債を含む相続そのものから離れる制度」と位置づけられます。
相続放棄ができるのは、その相続について法律上の「相続人」となる方です。
兄弟姉妹や配偶者、子ども…といった相続人がいますが、相続放棄は“家族全員でそろって行うものではなく”、それぞれが自分の判断で申し立てるものです。
たとえば、同じ相続でも、兄は放棄するけれど、妹は相続する――このような選択も可能です。
手続きの窓口は、被相続人(亡くなった方)の最後の住所地を管轄する家庭裁判所です。
必要書類を提出し、その内容に問題がなければ「相続放棄の申述が受理されました」という通知が届きます。
これによって、その相続については“法律上はじめから相続人でなかった”という扱いになります。
なお、相続には大きく分けて次の3つの選択肢があります。
- 単純承認
プラスの財産もマイナスの財産も、すべてそのまま相続する方法。 - 限定承認
相続した財産の範囲内でだけ負債を返すという、中間的な方法。 - 相続放棄
相続そのものから離れ、「初めから相続人でなかった」扱いにする方法。
この記事では、このうち「相続放棄」について詳しく解説していきますが、ここでは“全体の地図”として、この3つの位置づけを押さえておけば十分です。
次の章では、相続放棄ができない場合について、実際の事例を交えながら分かりやすく説明していきます。
◆2|相続放棄が必要になる典型ケース
相続放棄を考えるとき、その背景には「法律の問題」よりも、もっと素朴で、もっと生活に根ざした“悩みの種”があることが多いと私は感じています。
ここでは、そうした “なぜ放棄を検討したくなるのか” に絞って整理します。
相続でいちばん相談が多い理由は、やはり借金や保証債務の存在です。
亡くなった方が生活のために借り入れていたり、家族のために保証人になっていたりすると、「自分が背負うことになるのでは…」という不安が一気に押し寄せます。
この“借金の影”が、相続放棄を検討する大きなきっかけになります。
次に多いのが、税金や公共料金の滞納です。
固定資産税や水道光熱費が長期間払われていないケースでは、「相続すると、その支払いまで自分に回ってくるのでは」と心配になる方が少なくありません。
金額が小さくても、積み重なると精神的な負担は大きくなります。
また、故人と長く疎遠だった場合、遺品整理の負担が重くのしかかります。
一人で何部屋もの荷物を片づけるのは簡単ではありませんし、時間・体力・費用のすべてが必要になります。「片づけのすべてを自分一人で引き受けるのは無理だ」と感じて、放棄を検討する方も実際に多くおられます。
最近特に増えているのが、空き家や老朽化した不動産のリスクです。
「誰も住んでいない家を相続してしまうと、管理の負担まで自分が負うのでは」
「遠方で通えない」「修繕費が払えない」
――こんな不安が相続放棄に気持ちを向けさせます。
また、家族間で意見が合わないと、相続トラブルを避けたいという理由で放棄を選ぶ場面もあります。
こうした平和的な判断も、現場では決して珍しくありません。
さらに、海外で暮らしている方にとっては、日本の相続手続き自体が大きな負担です。
戸籍の取得や郵送のやりとりが難しく、「物理的に手続きができない」という事情から放棄を検討される方もいます。
最後に、“兄弟に任せたい”という気持ちが理由になるケースもあります。
「ずっと介護してくれた兄に全部引き継いでもらったほうが自然」
「自分は遠方で関われないから、相続に入らないほうがいい」
――そんな“思いやり”から相続放棄へ気持ちが向かう場合もあります。
どの理由も、法律の条文では語られない、現実の暮らしから生まれる「切実な動機」です。
次の章では、「では実際にどんな場合に相続放棄が認められないのか」という“法律上の線引き”を、落ち着いて整理していきます。
◆3|相続放棄ができない3つのパターン【法律上の要件】
相続放棄は「借金を引き継がないための大切な制度」ですが、どんな状態からでも放棄できるわけではありません。
法律では、“放棄ができなくなる行為”がいくつか定められています。
その中心にあるのが 「法定単純承認(民法921条)」 です。
これは簡単に言えば、
というルールです。
現場では、この判断がとても難しく、「そんなつもりじゃなかったのに…」という相談が後を絶ちません。
ここでは、実務で特に注意すべきポイントを整理しながら、“どんな行為が危険なのか”をわかりやすく説明します。
◆①-1 預貯金の払い戻し
銀行口座の現金を少しだけ引き出した場合でも、相続財産を処分した行為と評価され、相続放棄が否定される可能性があります。
たとえば、
- 「葬儀代に使うつもりだった」
- 「通帳を確認したら、つい引き出してしまった」
といった“善意”のケースでも、状況によっては単純承認と判断される例があります。
◆①-2 公共料金・税金を支払った
相続放棄のご相談で特に多いのがこのケースです。
電気・ガス・水道・携帯電話、市県民税などの督促が届くと、「とりあえず払っておいたほうがいいのでは」と感じやすいのですが、被相続人名義の債務を相続人が自分のお金で支払うと、法定単純承認と評価される可能性があります。
ただし、これは“支払ったら必ず相続放棄ができなくなる”という仕組みではありません。
実務では、次のような要素が総合的に見られます。
- 支払った経緯
- 金額の大小
- 緊急性の有無
- 支払ったことで相続人が利益を受けたかどうか
特に税金は金額が大きくなりやすく、相続放棄を検討するときに問題になりやすい行為の一つです。
迷ったときは、支払う前に一度確認しておくと安心です。
◆①-3 遺品の持ち帰り・処分
遺品の取り扱いも、相続放棄で非常に重要な論点です。
価値のある遺品を持ち帰ることは、財産の取得と評価され、単純承認となるおそれがあります。
一方で、
- 衣類
- 日用品
- アルバム
- 価値の低い生活用品
など、“形見分けとして一般的な範囲”のものは、単純承認に当たらないとされた裁判例もあります。
ただし、
- スーツ
- 毛皮
- ブランド品
- 骨董品
- 宝石類
などの「市場価値のある物」を持ち帰ると、単純承認と判断された裁判例もあります。
※実務では「価値の線引き」が非常に難しいため、遺品を触る前に一度専門家に相談していただくのが安全です。
◆①-4 車・不動産・株式など“明確な財産”の処分
次のような行為は、一般に 単純承認と判断される可能性が極めて高い ものです。
- 車を売却した
- 不動産の名義変更をした
- 株式を売却した
- 債権の取り立てをした
最高裁も、「債権の取り立て」は相続財産の処分に当たるという立場を明確にしています。
また、亡くなった方が持っていた株式の議決権を使ったり、株主総会に出席しただけでも、相続人としての行為と評価される可能性があります。
それほどまでに、“相続財産を動かす行為”は厳しく見られるのです。
◆①-5 よくある相談:「請求書が来て払ってしまった」
実務で最も多いのは、この相談です。
こうした「亡くなった後の請求」を、“とりあえず払っておこう”と対応してしまうケースは本当に多くあります。
ただ、相続放棄は“相続人としての行為をしていないこと”が前提 の制度です。
被相続人名義の債務を相続人が自分のお金で支払うと、「相続人として債務を履行した」と評価され、単純承認につながる可能性があります。
ここが非常に重要です。
◆①-6 実務で迷う行為の整理(携帯解約・家財処分など)
相続放棄を考える場面では、
- 「これは触っても大丈夫なのか」
- 「放っておくべきなのか」
判断に迷いやすい行為がいくつかあります。
以下は、裁判所や実務で問題になりやすいポイントを、あくまで “一般的な傾向” として整理したものです。
※具体的な事案では判断が変わることもあるため、最終的には専門家への相談が安全です。
■行為ごとの注意ポイント(実務上の傾向)
| 行為 | 単純承認となるおそれ | 実務での扱い(安全面の観点) |
| 携帯電話の解約 | 中間(事情により異なる) | 解約に伴う精算・支払いが発生すると「債務処理」と評価される可能性あり。個別事情で判断が分かれるため、迷う場合は相談が無難。 |
| 賃貸物件の退去手続き | 高め | 原状回復費用や賃料精算が発生すると「財産の処分」と判断されるおそれ。慎重な対応が必要。 |
| 家財の処分(遺品の片付け) | 高め | 市場価値のある物の処分・持ち帰りは単純承認に結びつきやすい。価値判断が難しいため、原則触れないのが安全。 |
| 公共料金・税金の支払い | 中間〜高め | 被相続人名義の料金を相続人が払うと「債務の履行」と評価されるおそれ。停止手続きだけであれば通常は問題なし。 |
| 郵便物の受け取り | 低い | 郵便を“受け取るだけ”であれば、単純承認には当たらないとされる。 |
| 銀行の残高照会 | 低い | 「残高を確認するだけ」の行為は、最高裁判例上、処分には当たらない。通常は問題なし。 |
| 葬儀費用の支払い | 低い(原則) | 葬儀費用は一般的に喪主負担とされ、相続放棄と直接は関係ない。ただし相続財産から支払う扱いが問題となる例外もあるため注意。 |
実務では、「生活の延長のつもりで行ったこと」が、後に“相続財産の処分”と評価されてしまい、
相続放棄ができなくなるというケースが少なくありません。
したがって、
- 判断に迷う行為には触れず、現状維持
- 必要であれば専門家に確認してから動く
これが、もっとも安全な進め方です。
◆①-7 裁判例のポイント
最後に、判断基準を短くまとめておきます。
● 最高裁(昭和37年)
「債権の取り立て=財産処分 → 単純承認」
→ 相続財産を積極的に動かす行為は、放棄不可とする立場が明確。
● 東京地裁(平成2年)
「価値の高い遺品をほぼ全部持ち帰り → 単純承認」
→ “形見分けの範囲”を超える価値ある物の取得は処分行為と判断。
裁判所の姿勢は一貫しています。
“相続財産を動かす行為”をしたら放棄できない。
これが大原則です。
次の章では、熟慮期間(3か月)の考え方と、期限を過ぎても放棄できる例外の仕組みについて、落ち着いて整理していきます。
◆② 熟慮期間が過ぎている場合
相続放棄には、「熟慮期間(じゅくりょきかん)」と呼ばれる期限があります。
これは、“自己のために相続の開始があったことを知った日から3か月以内”という決まりです。
たとえば、長く疎遠で連絡もなかった親族が亡くなった場合、死亡してから半年後に報せを受けたとしても、その“知った日”が起算点になります。
ただし、これはあくまで法律上の「原則」です。(※起算点がずれる特別な事情・判例上の救済もあります。次章で解説します。)
そしてもうひとつ大切なのが、3か月の間に「単純承認」「限定承認」「相続放棄」のいずれも手続きしなければ、「相続人として相続を承認したものとみなされる」仕組みがある、という点です。
つまり、相続放棄の申述も、限定承認の申述も行わずに3か月が経過すると、「相続人として相続した」という扱いが法的に確定してしまいます。
この制度には、法律として、“相続関係を長期間あいまいにしない”という目的があります。
この章では「原則のルール」だけを整理しました。
起算点がずれる特別な事情や、例外として認められた裁判例は、次の章でしっかり解説していきます。
◆③ 必要書類の不足・照会書未回答による却下
相続放棄は、家庭裁判所に申述をして書類の内容を確認してもらい、受理されてはじめて効力が生じる制度です。
ここが整っていないと、法律上の要件を満たさないとして「却下」されることがあります。
● よくある書類不備
実務で特に多いのが次のようなケースです。
- 被相続人の住民票除票の住所と、申述書の住所が一致しない
- 戸籍の続柄表示が不足していて、“この人が相続人である”ことが証明できない
- 被相続人の出生から死亡までの戸籍・除籍・改製原戸籍がそろっておらず、親族関係の線がつながらない(兄弟姉妹相続などで多発)
- 改製原戸籍が抜けているため、親族関係が明らかにならない
家庭裁判所は、「申述人がこの相続の相続人であること」および「被相続人の最後の住所地」といった、相続放棄の前提要件を非常に丁寧に確認します。
そのため、書類が1通欠けただけでも、“要件が整っていない”と判断されるケースがあります。
● 家庭裁判所が重視するポイント
家庭裁判所は、相続放棄の申述を審査する際、次の2点を特に重視します。
- 申述人が「相続人」であることが、書類により明確に証明されているか
- 被相続人の住所・死亡の事実が、提出書類によって正確に確認できるか
この2つが確認できないと、相続放棄としての前提要件が整わず、申述を受理することができません。(これは制度上、当然の確認事項です。)
● 照会書が返送されない場合
相続放棄の申述後、家庭裁判所から「照会書」 という確認書類が届くことがあります。
これは、
- 相続放棄の意思が本人のものか
- 相続財産の処分をしていないか
- 相続を知った日がいつか
といった基本事項を確認するためのものです。
もしこの照会書を返送しない場合、「相続放棄の意思を確認できない」とされ、却下される扱いになります。
提出書類に問題がなくても、照会書への回答がなければ、手続きは完了しません。
以上が、相続放棄が“法律上できない”と判断される主な理由のうち、「熟慮期間の経過」と「書類不備・照会書未回答」の部分です。
次の章では、相続放棄を“失敗しないために必要な注意点”を、実務の視点から丁寧にまとめていきます。
◆4|相続放棄の10大注意点
相続放棄は、生活を守るための大切な制度ですが、その仕組みを正しく理解していないと、思わぬところでつまずいてしまうことがあります。
ここでは、法律の細かな要件ではなく、制度そのものが持つ“特性”として知っておきたい10の注意点を、やさしく整理します。
① プラスの財産も相続できなくなる
相続放棄は、“借金だけ避ける制度”ではありません。
不動産・預貯金・保険の解約返戻金なども含め、すべて相続しないという扱いになります。
② 相続放棄は撤回できない(民法919条)
一度相続放棄が受理されると、「やっぱり相続したい」と後から申し出ても、原則として取り消すことはできません。
この“不可逆性”は、相続放棄を判断するときの大きなポイントになります。
③ 子どもに相続権は移らない(代襲相続との混同が多い)
相続放棄をすると、自分の子どもに相続権が移ることはありません。
「相続放棄すると子が代わりに相続するのでは?」という誤解は非常に多いのですが、これは“代襲相続”とは全く別の仕組みです。
ただし、自分が放棄すると“次順位の相続人”へ権利が移るため、結果として兄弟姉妹などに影響が出ることがあります。(※代襲相続は「相続開始前に死亡した場合」のみ発生します。)
④ 生前には放棄できない
親の借金が心配だからといって、生きているあいだに相続放棄をすることはできません。
相続が「開始」していないためです(民法882条)。
これは、制度の構造上どうしても変わらないルールです。
⑤ 放棄しても、他の相続人に自動的には伝わらない
家庭裁判所で相続放棄が受理されても、裁判所から他の相続人へ通知がいく仕組みはありません。
そのため、遺産分割で突然名前が含まれていたり、「放棄したはずでは?」という場面が起きやすくなります。
放棄したことをどう伝えるかは、家族間で調整する必要があります。
(※法律上「通知義務」はありませんが、誤解やトラブル防止のためには共有が望ましいという実務的な観点です。)
⑥ 次順位の相続人に権利が移る(兄弟姉妹は注意が必要)
相続放棄をすると、自動的に次の順位の方へ相続権が移ります。
例えば、
- 子が相続放棄 → 被相続人の両親(祖父母)や、兄弟姉妹に相続が回ってくることがある
- 兄弟姉妹が放棄 → さらにその次の順位(おじ・おば等)へ移る可能性がある
「自分だけ放棄すれば終わり」と考えていると、思わぬところに負担が移ってしまう場合があります。
相続放棄では、順位の構造(民法887条〜889条)を理解しておくことが大切です。
⑦ 未成年者・成年被後見人は代理人が必要
相続放棄の申述書は本人名義で提出しますが、未成年者や成年被後見人の場合は、手続きを本人だけで完了することができません。
この場合は、親権者や成年後見人などの「法定代理人」が手続きを補う必要があります。
家庭裁判所は、本人の意思や判断能力を慎重に確認するため、提出する書類も 通常より丁寧に整えることが求められます。
また、家庭の事情によっては、代理人同士で利益が衝突するおそれがあるケースでは、家庭裁判所が「特別代理人」を選任する必要が生じることもあります。
⑧ 海外在住者は必要書類が異なる
海外居住者の場合、相続放棄の申述には、
- 署名証明
- アポスティーユ
- 在外公館の証明
など、日本国内の場合とは異なる追加書類が必要になることがあります。
郵送の往復にも時間がかかるため、熟慮期間3か月とのバランスには特に注意が必要です。
(必要に応じて「熟慮期間の伸長申立て」が検討されます。)
⑨ 相続放棄しても「保存義務」が残ることがある
相続放棄をしたからといって、すべての責任が完全にゼロになるわけではありません。
特に、不動産などを“現に占有している”状態の場合は、一定の保存義務(民法940条)が発生することがあります。
詳しい内容は後の章で整理しますが、ここでは 「相続放棄=物理的な関係まで即時に消えるわけではない」という点だけ覚えておくと安心です。
⑩ 放棄しても税金や公共料金の整理が必要な場合がある
相続放棄そのものとは別に、故人の自宅の電気・水道の停止手続きや、郵便物の整理など、“生活上の後処理”が必要な場面があります。
これらの手続きは通常、相続財産の処分には当たりませんが、混同しないよう注意しながら、家の片付けや停止手続きを丁寧に進める必要があります。
この章では、相続放棄という制度にまつわる“落とし穴”を中心に整理しました。
次の章では、実際に相続放棄を行うときに必要となる手続きの流れを、順番にご説明していきます。
◆5|相続放棄の手続きの流れ――いま何をすればいいかを、ひとつずつ丁寧にたどります
相続放棄は、制度の名前だけ聞くと少し身構えてしまいますが、実際の手続きは、決して複雑なものではありません。
必要な書類を集め、家庭裁判所に届け、その後の確認に落ち着いて対応する――。
流れそのものは、とても素朴です。
ここでは、細かい注意点や例外の話はいったん離れ、“ひととおり終わるまでの道筋”だけを、ゆっくりたどっていきます。
① 必要書類をそろえる
相続放棄は、まず「相続関係を紙で説明する」ところから始まります。
やることはシンプルで、
それを書類で示すだけです。
代表的に必要になるのは、主に次の4種類です。
- 被相続人の住民票除票(または戸籍の附票)
亡くなった方が最期を迎えた住所を確認するための書類です。 - あなた自身の戸籍謄本(全部事項証明)
「あなたはこの相続に関係する立場です」ということを示すために使います。 - 被相続人とあなたの関係が“途切れずにつながる”戸籍一式
ここがいちばん抜けやすい部分です。
特に兄弟姉妹の相続では、被相続人の出生から死亡までの戸籍・除籍・改製原戸籍などをきちんと揃える必要があります。
戸籍を順に並べると、家族の歴史がひと続きの線のようにつながっていきます。
家庭裁判所は、この線をもとに「確かに相続人である」と判断します。
- 相続放棄申述書
家庭裁判所の書式に沿って記入する、比較的シンプルな書類です。
書類の数は多いように見えますが、目的は“相続人であることを正確に伝える”ことだけ。
ひとつずつ集めれば、必ず揃いますし、場合によっては家庭裁判所から追加の書類を求められることもあるので、その都度案内に従って整えていけば大丈夫です。
② 被相続人の「最後の住所地」の家庭裁判所へ提出する
書類が整ったら、いよいよ提出です。
提出先は、亡くなった方が最後に住んでいた場所を管轄する家庭裁判所。
提出方法は2つあります。
- 窓口で直接提出
担当窓口で落ち着いて確認してもらえるので、不安が小さくなります。 - 郵送で提出
平日に動きにくい方はこちら。追跡できる郵送方法が安心です。
ここでの役割は、「必要書類を、間違いなく家庭裁判所に届ける」それだけです。
あとの審査や確認は、家庭裁判所が順番に進めてくれます。
③ 「照会書」が届く
申述書の提出後、数週間ほど経つと、家庭裁判所から 「照会書」 が送られる場合があります。
内容は、次のような基本事項の確認です。
- 相続放棄の意思が本人のものか
- 相続財産を処分していないか
- 相続を知った日がいつか
難しい法律用語が並ぶわけではなく、必要事項を確認するための書類です。
落ち着いて記入し、指定の期限までに返送します。
この照会書を返送しないと手続きが先へ進まないため、封筒が届いたら、まず内容を確認し、期限内に対応すれば問題ありません。
④ 「相続放棄申述受理通知書」が届く
照会書を返送し、内容に問題がなければ、家庭裁判所から 「相続放棄申述受理通知書」 が届きます。
この通知書が届いた時点で、あなたは “その相続について、初めから相続人でなかった” という扱いになります。
多くの方が、この通知を目にした瞬間に大きく安心されます。
手続きの中心部分は、ここでいったん終了です。
⑤ 「相続放棄申述受理証明書」が必要かどうかを判断する
ここは実務で混乱しやすい部分なので、丁寧にお伝えします。
金融機関やカード会社などの債権者は、自らが利害関係人として家庭裁判所から受理証明書を取得できます。(=あなたが必ず取得しなくても、債権者側で取得できる仕組みです。)
そのため、あなた側で受理証明書が必要になるのは、次のような場合に限られます。
- 相続登記など、法務局の手続きで提出を求められたとき
- 公的機関から証明書の提出を求められたとき
債権者から直接求められた場合には、
「必要であれば家庭裁判所から取得できます」
と案内すれば十分です。
必ずあなたが発行手続きをしなければならないわけではありません。
⑥ 相続放棄後に行う、最低限の2つの対応
相続放棄が受理されたあと、いくつかの事務的な整理が残ります。
量はそれほど多くありませんので、落ち着いて進めれば大丈夫です。
● 1)債権者からの通知への返答
相続放棄後も、一定期間は請求書や通知が届くことがあります。
その場合は、
- 相続放棄申述受理通知書のコピー
- または「受理証明書は家庭裁判所で取得できます」という案内
を添えて返送します。
これにより、以後の請求はあなたには届かなくなります。(※債権者側が家庭裁判所へ問い合わせられるためです。)
● 2)相続財産の管理を次順位の相続人へ引き継ぐ準備
相続放棄が受理されても、被相続人宅の鍵を持っている、遺品の管理を続けているといった状況が残っている場合があります。
このような場合は、自分が行っている“管理”を次の相続人へ引き継ぐための準備が必要になります。
具体的には、次のような作業を指します。
- 鍵の保管・出入りの権限を次順位の相続人へ移す
- 家の状態(電気・ガス・水道・郵便物など)を伝える
- 近隣や管理会社からの連絡が届いている場合は、その情報を共有する
つまり、「自分の占有を終わらせ、次の相続人が管理できる状態に整える」という意味になります。
ご家族の状況ごとの「まず確認すべき点」
相続放棄について調べると、「制度は分かったが、自分の状況ではどう判断すればよいのか
という疑問が出てきます。
以下では、相談が特に多い状況を取り上げ、その場面で 最初に確認すべき点 を分かりやすく整理しています。
法律の細かな要件や手続きの詳細ではなく、ここでは 状況ごとに判断するときの基本的な考え方だけに絞って説明します。
① 親の借金を放棄したい
親御さんの面倒を見てこられた方ほど、「借金だけは背負えない」という思いが強くなります。
この状況でまず押さえたいのは、“何を相続するか”よりも、“残るかもしれない不安をどう整理するか”という視点です。
親の財産状況がはっきり分からない場合でも、相続放棄という選択肢を知ることで、「この先、思いも寄らない債務に巻き込まれるかもしれない」という不安がひとまず落ち着く方が多いです。
ポイントは、借金の金額の大小そのものよりも、“何が出てくるか分からない不確実さ”が心理的負担を大きくするということ。
この不確実さを手放したいという気持ちが強いほど、相続放棄という方向性が自然に見えてくる傾向があります。
② 兄弟相続で自分に話が回ってくるケース
兄弟相続では、「どうして急に自分のところへ連絡が来たのか」と戸惑うところから相談が始まることが多いです。
実務でよくあるのは、“本来の相続順位の人が相続できない・相続しない状況になり、その結果として自分が相続人に繰り上がってきた”というケースです。
兄弟姉妹の相続は、
- 相続人の人数が多くなることが多い
- 戸籍を遡って丁寧に確認する必要がある
- 代襲相続(亡くなった兄弟の子どもが代わる制度)が関係することがある
などの理由から、家族が普段イメージしている相続の流れと、法律上の実際の相続順位が一致しないことがよくあります。
こうした場合に役立つのが、「自分が相続順位のどこにいるのか」を紙に書き出してみることです。
相続関係を図にすると、全体の位置関係が分かりやすくなり、整理しやすくなります。
自分の立ち位置がわかると、
- 相続放棄をするのか
- 手続きを誰が中心になって進めるのか
- どの書類を準備すればよいのか
といった点が判断しやすくなります。
③ 配偶者が放棄した場合、残りの相続人はどう動く?
配偶者が相続放棄をすると、「家族の相続関係が大きく変わるのでは?」と心配される方が多くいます。
ただ、ここで押さえておきたいのは、配偶者が放棄しても新しい相続人が増えるわけではないということです。
子がいる場合は、もともと「配偶者+子」が相続人であり、配偶者が放棄すると 子だけが相続人として残り、その取り分が増えるだけ です。
子がいない場合も同じで、本来の相続人である父母や兄弟姉妹が、配偶者の放棄によって「相続分が増える」だけで、新しい相続人が追加されるわけではありません。
つまり、相続放棄によって“相続人の種類が変わる”のではなく、すでに相続人である人の取り分が大きくなるだけという仕組みで動いています。
家族構成によって、不動産の扱いや手続きを担う人が変わるため、自宅の家系図・関係図を一度ゆっくり書き出すだけで、次の判断が格段にしやすくなります。
④ 連帯保証人でも相続放棄できる?
連帯保証が関わる相続では、相続財産が多くない場合でも不安が大きくなることがあります。
実務で特に多いのは次の2つです。
● 「保証契約を家族が知らなかった」ケース
中小企業や自営業のご家庭では、生前に保証契約の内容を家族に共有していないことがあります。
そのため、相続後に金融機関から請求が届いて初めて知るケースが少なくありません。
● 「金額が分からないまま相続が始まる」ケース
保証債務は一覧で確認できるものではなく、金額が確定していなくても責任が残る可能性があります。
そのため、相続放棄を検討するきっかけになりやすい分野です。
判断の出発点としては、金額よりも「保証契約そのものが現在も有効かどうか」を最初に確認することが重要です。
保証債務の扱いは金額の大小だけでなく、「契約が存在しているのか」「内容がどうなっているのか」を把握することが最も大切なポイントになります。
⑤ 海外在住の相続放棄
海外在住のご家族からの相談も増えています。
ここで押さえたいのは、「手続き自体は可能だが、期限管理が国内より難しくなる」という点です。
海外からの申立てでは、
といった事情があり、相続放棄そのものが難しいというより「時間が読みづらい」ことが最大の課題になります。
実務では、「できるだけ早く書類の確認に着手できるかどうか」が最初の判断ポイントになります。
⑥ 相続人全員が放棄したら、不動産はどうなる?
相続人が全員相続放棄をすると、不動産を相続する人がいなくなるため、家庭裁判所で相続財産清算人が選ばれます。(改正民法第952条)
相続財産清算人が不動産の管理や処分を担当し、生前に被相続人を支えていた人などの特別縁故者がいれば、その方に財産を分けることもあります。特別縁故者もいない場合は、清算が終わった後に不動産は国庫に帰属します。
ここで特に気をつけたいのは、その家に家族が住んでいる場合 です。
相続放棄をすると家の名義を自分に変えることはできず、管理の主導権は清算人に移ります。そのため、今後も住み続けられる保証はなく、退去や住み替えが必要になる可能性 があります。
⑦ 形見分けはどこまでOK?
形見分けは、相続放棄の相談でも特に判断が難しい場面です。
気持ちの面でも大切な行為ですが、法的には慎重に扱う必要があります。
ここでお伝えしたいのは、まずひとつだけです。
これが最も安全です。
アルバムや手紙など、明らかに思い出の品と分かるものは別として、価値の判断が難しい物はそのまま残しておくほうが安全です。
実務でも、ご家族の負担やリスクを減らすうえで有効な対応です。
⑧ 生命保険は相続放棄と関係ないのか?
生命保険については、「保険金を受け取ると相続したことになるのでは?」という質問が特に多くあります。
まず押さえておきたいのは、生命保険は 遺産とは別の仕組みで動く という点です。
もちろん例外はありますが、一般的には次のように扱われます。
- 相続放棄をしても保険金は受け取れる
- 保険金を受け取っただけで相続放棄ができなくなるわけではない
ただし、受取人の指定や契約内容によって扱いが変わるため、相続放棄を検討するときは 最初に契約書を確認すること が重要です。
ここを押さえるだけで、判断の方向性がかなり明確になります。
◆ 7|3か月を過ぎても相続放棄できる可能性があるケース
相続放棄には「相続を知った日から3か月」という熟慮期間が定められています。これは、相続関係を不確定なまま長く放置しないための基本的なルールです。
しかし実務では、「借金があると知らなかった」「遺産が全くないと思っていた」といった事情から、3か月を過ぎて初めて相続放棄を検討する方も多くいらっしゃいます。
この章では、裁判例の考え方を踏まえながら、3か月を過ぎても相続放棄が認められる可能性がある場面について、最初の判断の目安となる部分を整理します。
① 借金を知らなかった場合
最も多いのが、相続人が本当に借金の存在を知らなかったというケースです。
例えば、保証契約が家族に全く共有されていなかったり、カードローンや消費者金融の利用について聞かされていなかったり、通帳や関係書類を家族が確認できる状態ではなかったりする場合です。このような状況では、借金があると気づかないまま3か月が経過してしまうことがあります。
救済の判断で重要になるのは「知らなかったことに相当な理由があるかどうか」です。
「気づかなかった」という主観だけでは不十分で、通常の注意をしても把握が困難だったと客観的に説明できる事情があるかどうかが重視されます。
② 「遺産ゼロ」と信じても不自然ではない事情があった場合
遺産が全くない、または負債がないと思っていた場合でも、そのように理解してしまうことに合理的な理由があれば救済が認められる可能性があります。
たとえば、
- 長期間収入がなく生活費は家族が負担していた
- 事業を廃業しており、残債を示す書類が手元に残っていなかった
- 金融機関からの通知が全く届いていなかった
といった事情が重なると、「遺産がないと判断してしまったとしても無理はない」と評価される余地が生まれます。
ただしここでも、「本人がそう思い込んでいた」というだけでは足りず、外から見てもそう判断してしまう状況だったかどうかがポイントになります。
③ 最高裁昭和59年判決の趣旨
熟慮期間に関する最重要判例が「最高裁昭和59年4月27日判決」です。
この「起算点の修正」によって、3か月を過ぎていても相続放棄が認められる可能性が生まれています。
つまり、確認すべきなのは単純に「期限を過ぎたかどうか」ではなく、相続内容を実際に把握できたのはいつだったのかという点です。
④ 福岡高裁「保証債務の請求が突然届いた」事案
実務で参考にされることが多いのが、福岡高裁が扱った「保証債務の請求が相続後に突然届いた」事案です。
家族がまったく把握していなかった保証契約について、相続後に金融機関から請求が届いたケースで、裁判所は次の点を重視しました。
- 借金の存在を知り得なかった事情
- 被相続人が保証契約を家族に知らせていなかった事実
- 通常の注意を払っても確認することが難しかった状況
これらを総合し、相続放棄を認める判断がされています。
この事案から分かるポイントは、保証債務は家族が気づきにくい負債であり、事情によっては救済の余地がある ということです。
⑤ 実務で認められやすいケース・認められにくいケース
判断基準について誤解が生まれやすいため、実務の傾向を整理します。
● 認められやすい方向の事情
- 借金の存在が家族に知らされていなかった
- 通帳や重要書類がまったく残っていなかった
- 生前の状況から借金があるとは考えにくかった
- 債権者からの督促が相続後になって初めて届いた
- 保証契約を被相続人が家族に告げていなかった
● 認められにくい事情
- 郵便物を確認すれば気づけたのに放置していた
- 家族が借金の存在を把握していた、または気づいていた
- 書類が残っていたのに調べていなかった
- 本人の「知らなかった」という主張だけで理由が示せない
単に「知らなかった」と言うだけでは、裁判所は判断できません。
外から見ても“気づけなかった理由がある”と説明できる事情が必要になります。
⑥ 熟慮期間の伸長ができる場合
相続内容が複雑で、3か月以内に判断が難しい場合は、家庭裁判所へ熟慮期間の伸長を申し立てることができます。
例えば以下のようなケースです。
- 事業の精算が必要で調査に時間がかかる
- 負債の内容確認に時間が必要
- 海外在住で書類のやり取りに日数がかかる
伸長をしておけば、この章で扱っている「3か月後の救済」に頼る必要がなくなるため、実務では非常に重要な手続きです。
⑦ 救済を受けるために残しておきたい記録
期限後の相続放棄が認められるかどうかは、事実を客観的に示せるかどうか によって大きく変わります。
そのため、次のような記録は非常に重要です。
- 債権者から届いた通知書・督促状
- 届いた日時が分かる封筒
- 保証契約を家族が知らなかったことを示すメモ
- メールや手帳などのやり取りの記録
- 相続発生後の問い合わせ履歴(いつ・どこに・誰が連絡したか)
これらは、家庭裁判所が「本当に知り得なかったか」を判断する際の大切な材料になります。
⑧ 実務的なアドバイス
最後に、実務での基本的な考え方を二つだけお伝えします。
●1 「期限を過ぎた=絶対にできない」わけではない
熟慮期間後でも相続放棄が認められたケースは実際に多数あります。
ただし、救済はあくまで例外として扱われます。
●2 主観的な思い込みでは救済されない
「知らなかったと思っていた」「遺産がないと思っていた」という主観だけでは足りません。
必要なのは、外から見てもそう判断してしまう状況だったと説明できる客観性 です。
ここが認められるかどうかの大きな分岐点になります。
◆ 8|相続放棄しても残る義務とリスク
――放棄しても、すぐに関わりが完全になくなるわけではありません
相続放棄をすると、法律上は「はじめから相続人でなかった」扱いになります。
ただし実務では、相続放棄をした直後にすべての関係が完全に解消されるわけではありません。
その理由の中心にあるのが 民法940条 です。

① 民法940条の正しい読み方
民法940条は、相続放棄をした人について「放棄した時点で自分が占有している相続財産」は、引き渡すまでの間、自己の財産と同程度の注意を払って保存する義務があると定めています。
押さえておくべきポイントは次の2つです。
● 1「現に占有している」が基準になる
この“占有”は、専門的な法律概念というより、生活実務に近い感覚で判断されることが多い領域です。
たとえば以下のような場合は、占有していると評価される可能性があります。
- 家の鍵を持っている
- 自由に出入りできる
- 荷物を置いている
- 近隣や管理会社からの連絡窓口になっている
● 2「保存義務」とは“財産が損なわれないようにする最低限の注意”
改正民法で「管理」ではなく「保存」という言葉が採用されたのは、積極的に修繕したり維持管理したりすることまでは求めないという範囲を明確にするためです。
実務では、次のような「最低限の措置」が典型例になります。
- 建物が崩れそうなときの応急的な対応
- 漏水など周囲に被害が出るおそれがある場合の最低限の処置
- 危険箇所を放置しない程度の注意
つまり、求められるのは 財産が著しく損なわれないようにするための限定的な義務 であり、従来の幅広い「管理義務」とは異なる扱いです。
② 放棄後も対応が必要になる“典型トラブル”
保存義務が現実に問題になるのは、主に 空き家・設備の不具合・近隣トラブル の場面です。
● 空き家の倒壊リスク
老朽化した家では、台風の後に「屋根が落ちそう」「外壁が外れている」と通報が入ることがあります。
相続放棄をしていても、危険な状態を完全に放置することはできず、応急対応が必要となる可能性があります。
● 火災・漏電・ガスの危険
- ブレーカーが上がったまま
- ガスが閉栓されていない
- メーター周りが著しく劣化している
こうした状態があれば、占有している限りは最低限の安全確保が必要です。
● 漏水や設備故障
大掛かりな修繕は保存義務の範囲外ですが、階下へ影響が及んでいるような緊急性の高い漏水は、応急措置が求められることがあります。
③ 放棄しても“すぐに完全に離れられない”理由
相続放棄をした方が、しばらく相続財産と関わり続けることがある理由は主に次の2つです。
- 占有している間は保存義務が残るため
- 次順位の相続人が動き出すまで、連絡が放棄者に届きやすいため
特に空き家がある場合は、以下のような郵送物や連絡が放棄者に届き続けることがあります。
- 郵便物
- 固定資産税の納付書
- 管理会社や町内会からの連絡
心理的な負担につながることも多いですが、実務の感覚としては「次の相続人が対応を引き継ぐまで少し期間が必要」というのが現実に近い状況です。
④ 相続財産管理人制度の活用(相続人はいるが管理が行き届かない場合)
相続放棄をしても、他の相続人がそのまま何もしないままになっていると、空き家や土地が放置され、近隣トラブルや老朽化のリスクが大きくなっていきます。
こうした「相続人はいるが、財産の管理が適切に行われていない」という場面で検討されるのが、相続財産管理人を家庭裁判所に選任してもらう制度です(改正民法897条の2)。
● 相続財産管理人とは
相続財産管理人は、
- 相続人がいる
- しかし、相続人が高齢・病気・遠方などの理由で管理できない
- 相続人同士の対立などで誰も動かず、財産が放置されている
といったケースで、相続財産を「きちんと保存・管理する」ために家庭裁判所が選ぶ第三者の管理人です。
ポイントは、目的が「管理」までであり、「清算」や「国庫帰属」までは担当しないという点です。
債権者への弁済や最終的な清算までを担当する相続財産清算人とは、役割がはっきり分かれています。
● 管理人が選ばれるとどうなるか
相続財産管理人が選任されると、次のような管理行為を中心に担当します。
- 空き家・土地など不動産の保存・維持(必要な修繕の検討など)
- 賃料や収益がある場合の管理・入出金の整理
- 固定資産税など、管理に必要な支払いの調整
- 必要に応じた最小限の処分について、家庭裁判所の許可を得て対応
あくまで「財産を適切な状態で維持する」ことが役割であり、すべてを換価して清算したり、国庫に帰属させたりするところまでは権限に含まれません。
● 誰が申し立てるか・誰が選ばれるか
相続財産管理人の選任を申し立てできるのは、
- 相続人
- 債権者などの利害関係人
- 検察官
などです。
誰が管理人になるかについては、実務上は、弁護士や司法書士といった第三者の専門職が選任されることが多く、中立性の観点から、相続人やその家族が管理人に選ばれるケースは一般的ではありません。
● 費用のイメージ
相続財産管理人を選任するには、収入印紙や郵便切手代以外に、必要に応じて予納金(管理に必要な経費・報酬の前払い)といった費用がかかります。
予納金の金額は、財産の内容や管理に必要な手間によって裁判所が個別に決めるため一概には言えませんが、不動産が複数ある・管理が長期にわたりそう、という場合ほど高くなる傾向があります。
まとめ
相続放棄は相続から離れるための制度ですが、放棄した瞬間にすべての関わりが終わるわけではありません。
- 占有している財産がある場合は最低限の保存義務が残る
- 空き家や設備トラブルでは応急対応が必要になる場合がある
- 次順位の相続人が動くまで連絡が放棄者に届くことが多い
- 相続財産管理人制度(民法897条の2)を利用すれば、管理負担を第三者に引き継ぐことができる
これらを知っておくだけでも、相続放棄後の負担を大きく減らすことができます。
◆ 9|相続放棄が認められなかったときの対処法
――思っていた結果と違ったとき、次にどう動けばよいのか
相続放棄は、家庭裁判所が事情を一つずつ確認したうえで判断するため、申立てが認められないことがあります。
ただし、結論が出たあとでも取れる手段はいくつかあります。ここでは「認められなかった後の進め方」を順番に整理します。
① 即時抗告という見直しの手続き
家庭裁判所の決定に疑問がある場合、決定の日から2週間以内であれば「即時抗告」という手続きが使えます。
これは次のような点について、上級の裁判所にもう一度判断してもらう仕組みです。
- 行為が本当に単純承認に当たるのか
- 熟慮期間(3か月)の起算点の判断が適切か
- 書類の不一致に合理的理由があるか
すべてのケースで結果が変わるわけではありませんが、却下理由を整理し直すことで再検討される余地が生まれることがあります。
② 却下理由ごとの見直しポイント
● 単純承認と扱われた場合
預貯金の引き出し、遺品の持ち帰り、公共料金の支払いなど、生活の中で行った行為が「財産処分」と評価されることがあります。
ただし次の視点で見直す余地があります。
- 行為にやむを得ない事情があったか
- 実質的な利益を受けていないか
- 保存行為の範囲だったか
これらを整理することで、判断が変わる可能性が見えてくることがあります。
● 熟慮期間の経過とされた場合
熟慮期間である3か月の起算点は、相続人が状況をどこまで把握していたかによって変わります。
たとえば、
- 借金の存在を全く知らなかった
- 請求書も届いていなかった
- 「遺産は特にない」と考える合理的理由があった
こうした事情があれば、実際の起算点が別の日になる可能性があります。
「いつ、何を知ったのか」という事実確認を丁寧に整理することが、抗告審の重要なポイントになります。
③ 相続放棄が認められず、債務を引き継ぐことになった場合
相続放棄が認められないと、結果的に借金や保証債務を引き継ぐ形になることがあります。
ただし、その後の選択肢がなくなるわけではありません。
● 任意整理・民事再生
返済計画を見直して、家計の負担を軽くする方法です。
相続による債務が中心の場合は、最初に検討されることが多い手段です。
● 自己破産
負債が大きく、任意整理や民事再生によっても返済が困難な場合は、自己破産を検討することが現実的な選択肢になります。
④ 次順位の相続人への連絡
相続放棄の結果や手続きの経緯は、自動的に他の相続人へ通知されるわけではありません。
特に兄弟姉妹や甥・姪が次の相続人になるケースでは、状況を共有しておくことで後の誤解や行き違いを防ぐことができます。
⑤ 専門家へ早めに相談した方がよい理由
相続放棄が認められなかった場合、まず大切なのは 「理由を正確に把握すること」 です。
整理すべきポイントは次の通りです。
- 却下理由のどこに争点があるのか
- 追加で説明できる事実があるか
- 即時抗告をする意味があるのか
- 今後の生活に影響を残さないために何を優先すべきか
これらを順番に確認していくと、次にどう進めばよいかが明確になります。
実際に、早い段階で状況を整理したことで「思っていたより負担が軽くなった」というご家族はいらっしゃいます。
◆ 10|まとめ:相続放棄で失敗しないために大切なこと――むずかしく考えすぎず、基本を押さえて進めれば大丈夫です
相続放棄は複雑に見えますが、実際に押さえておくべきポイントはそれほど多くありません。
大切なのは、いくつかの基本を丁寧に守ることです。
ここでは、迷ったときに思い出していただきたい 5つのポイント をまとめます。
●1 早めに動く
相続放棄は、期限に左右されやすい手続きです。
気になる点が出てきた時点で、少し状況を整理してみるだけでも先の見通しが立ちやすくなります。
●2 財産を触らない
預貯金や家財、書類などに安易に手をつけると、後で「財産を処分した」と評価されることがあります。
迷うときは 確認だけにとどめる のが最も安全です。
●3 書類をそろえる
相続放棄は、戸籍や除票などの基礎資料がそろうと、全体の流れが見えやすくなります。
まずは必要書類を集めるところから始めると、その後の判断がスムーズになります。
●4 期限を軽視しない
相続放棄には、法律上「3か月」の期限があります。
期限を知っておくだけでも、どのタイミングで動けばよいかが明確になります。
●5 一人で判断しない
相続は家庭ごとに事情が大きく異なります。
一人で判断しようとすると、どうしても負担が大きくなりがちです。
専門家に軽く相談するだけで「どこに気をつければよいか」が整理され、迷いが減ることが多いです。
相続放棄は、ご家族の状況を整えるための“ひとつの選択肢”です。
どの道を選ぶにしても、焦らず、丁寧に、必要なときは誰かの力を借りながら進めていけば、必ず解決に向かいます。
●終わりに
相続放棄は用語や制度が難しく見えるかもしれませんが、手順をひとつずつ進めていけば落ち着いて対応できます。
大切なのは、迷った点を抱え込まず、気になったところを少しずつ整理することです。
「ここだけ確認したい」「自分のケースではどう考えるべきか」
そう感じた段階で、いつでもご相談ください。すべてを自分だけで判断しきる必要はありません。
西宮市のシアエスト司法書士事務所では、相続放棄のご相談を日常的にお受けしています。
状況を一緒に確認するだけでも、必要な書類や進め方が整理されます。
相続放棄が初めての方にも分かりやすいよう、丁寧にご説明しますので、不安な点があればどうぞ気軽にお声がけください。
今の状況に合わせて、できるだけ負担の少ない進め方をご案内します。


